私は古い建物や風景が割と好きなので、神社やお寺巡りをすることもあります。で、だいたい参拝もしますが、神や仏を信じているかというと、特に信じていません。信じていないのに神や仏に頼み事をしているのかというと、特に頼み事をしている意識はなく、何となくそういう存在がもしこの辺りにいるのであれば、大切な人たちや自分に関する祈りをちょっくら聞いといてもらうか、くらいの無駄に憎たらしい感じで参拝しているのかもしれないと改めて思いました。

前置きが長くなりましたが、私は性格的にも、職業的にも?、基本的にスピリチュアルなものを信じたり、頼ったりすることがありません。

ただ、そういったものを信じたり、頼ったりすることができたら少しは気持ちが軽くなるかもしれない、と思うシーンは今まで何度かありました。きっと、生きていれば、そんな風なことを一度くらいは思ったことがある人は多いんじゃないでしょうか。

受験の時とか、試験の時とか、努力はしたけど伸るか反るか後はどうなるかわからない、みたいな時は、気持ちを落ち着かせるために神頼みもしていたかもしれません。

他にも超常的なものを信じて心を落ち着かせたくなった時はあったと思いますが、一番は、当たり前のように近くにいた人がいなくなってしまった時です。

天国があると思い込ませるしかない、というやつです。

でも、昔から科学的な考え方にウェイトを置いて過ごしていると、急にそんな都合よく思考を操ることもできないので、悶々としながら少しずつ慣れていくのを待つしかありません。

じっと耐えられる人もいると思いますが、音楽や映画や小説を鑑賞したり、人と会ったり、何かしら動いてどうにかしようとする人が多いんじゃないでしょうか。

私は、なかなか何をしても時間が立っても気持ちが上がってこないということがありましたが、1つの楽曲に出会って、とてつもなく心が落ち着きました。

それまでにもたくさんの音楽を聴いて、少し気持ちが楽になったこともあったのですが、その1曲をしっかり聴いた前後では、心持ちが大きく変わりました。

音楽を聴いているイメージ

その楽曲は藤井風の「帰ろう」です。

それ以前から知っていた曲ではありましたが、いざ当時の心境になった時に真正面から聴いたら、その出来事に関わった全員が救われたような気持ちになり、これで良かったんだなと思えるようになりました。

旅立ってしまった人と残された人の心情をあれほどまでに冷静に俯瞰して、偽りのない優しさで包み、背中を押してくれる曲を書けるというのは、藤井風とは一体どういう人間なんだろうと、生まれ変わりをつい信じてしまいそうになるほど、驚きます。

2番のAメロの歌詞は、おそらくとてもたくさんの家族に当てはまるんじゃないかと思えて仕方がありません。

ー あなたは弱音を吐いて わたしは未練こぼして 最後くらい 神様でいさせて だって これじゃ人間だ ー

最後の時の人間の弱さをこれ以上言い表しようがないほどに言い表し、それでも私達は人間だからしょうがないね、と優しく諦め達観しているように思えます。

私はこのフレーズを聴いた時、自分でも引くほど涙が溢れて止まらなくなりましたが、悲しいからではなく、お互いに救われた気がしたからだったと思います。

ー 待ってるからさ もう帰ろう 幸せ絶えぬ場所 帰ろう 去り際の時に 何が持っていけるの 一つ一つ 荷物 手放そう ー

ラストサビのフレーズでは、天国を想起させますが、やはりお互いに、自分にそう思わせたいのです。旅立って行く人も、残される人も、そんな場所がないとわかっていても、その瞬間までその使い古された優しい嘘かもしれない場所を信じたいのです。

ー 憎み合いの果てに何が生まれるの わたし わたしが先に 忘れよう あぁ今日からどう生きてこう ー

旅立って行く人のための曲であると同時に、残された人のための曲であり、これからそのような経験をする人のための曲でもあります。

何にも頼らずに、いつまでもブレずに、強く逞しい人間でい続けたい、とけっこう本気で思っていたこともあります。しかし、年齢や経験を重ねる度に、「そんな人間いないんじゃないか?」と強く思うようになって来ています。

弱さや情けない部分をしっかり認めて、倒れそうになったら支えてくれそうな信頼できる何かを掴んでもいいんじゃないか、と、「帰ろう」を聴いて、更に強く実感するようになったのかもしれません。