多くのモノがデジタル化して行くことは避けられず、今後より加速して行くと思いますが、最近、人間の思い出はアナログな言動とセットで記憶されているものがほとんどなのかなと感じています。

おそらく5歳頃だった気がしますが、ウルトラマンの四角い本を気に入っていました。何が気に入っていたのか後々思い出すと、本に使用されていた強烈なインクの匂いだった気がします。本の内容以上にあの匂いが、あの頃の畳の景色やおもちゃ箱の形と一緒に想起されます。
7歳、8歳の頃だったと思いますが、「スタジオジブリ 宮崎アニメ THE BEST」というCDを図書館で借りてきて、テープに録音して、何度も聴いていました。両親と3人の寝室(和室)の押入れ部分が私の部屋というかスペースだったのですが、そこに大事にしまっていたので、その場所の空気や当時の匂いのようなものまでセットで想起されます(しかも、一度家族の誰かがそのテープに何かの曲を上書きしてしまったので、図書館に借り直しに行きました)。
初めて自分の意思で購入したCDはMr.ChildrenのシングルCDでした。購入したお店の様子までは思い出せませんが、隣町の駅前近くのCDショップまで自転車で走った道を何となく覚えています。
小学5年生頃から頻繁に釣りをするようになって、友達と初めて地元の漁港を越えて、サイクリングロード経由で隣町の汽水域で釣りをして、初めて訪れた駄菓子屋でたくさんお菓子を買ったとても暑かった日を何となく覚えています。
こんな具合に、数十年前のことで今も覚えている思い出のほとんどは、実際に自分の身体が何かしらの目的に対して能動的に動きながら得た情報ばかりです。
逆に、あくまで個人的ではありますが、一人でテレビやゲームやPCやスマホに夢中になっていた時間の思い出はほとんどありません。もちろん、過去に鑑賞した映画や小説のストーリー、音楽のメロディや歌詞は覚えているものが多いのですが、それは思い出ではなく記憶です。
家族で夕暮れ時にテレビを見ながら食卓を囲んでいた何とも言えない淡い思い出や、友達と夜中まで飽きずにゲームをしながらゲラゲラ笑っていたあの思い出において、デジタル媒体は家族や友達の間を媒介するものでしたが、思い出はアナログな部分と紐づいている気がしています。
アナログ回帰や懐古主義といったことではなく、仮にこれからの人類はアナログな言動が減っていって、一人でデジタルに没入する時間が増えていった場合、それに比例して思い出は減っていくのだろうか?という興味があります。VR、AR、メタバース等が五感も取り入れるようになった場合には、また話が変わって来るのかもしれません。
ただ、思い出というものは、人間の幸せの大部分を占めていると私は考えています。過去の栄冠や栄光も思い出に分類されるものではありますが、そこまで極端なものでなくても、思い出した時にふっと笑顔になるような、胸がグッとなるような、そんな小さな思い出はあればあるほど、今の自分の背中を押し、奮い立たせ、幸せを感じさせてくれます。
逆もあります。忘れたくても忘れられない辛い、悲しい思い出は、痛みや辛さを思い出させ、寂しさを呼び起こします。しかし、そのアップダウンこそが、幸せをより強く感じさせる仕組みでもある気がします。
だから、これからの人間の暮らしにおいて、相対的に思い出が減っていくようなことがある場合、それはきっと良いことではないと思います。
何もかもがデジタル上に描写されるような時代は、仮に来るとしてもまだまだ当分先だとは思いますが、文明におけるデジタルとアナログのバランスは、人類の幸せに直結する非常に重要でセンシティブな問題なのだと思います。